人目を気にする

 

人目を気にする人も、あまり気にしない人もいるようだ。

ノーネクタイ、ジーンズで出勤(僕)したり、道端に座ってたり。(眉をひそめる向きもあるが、学生時代は僕もやった)。 人目というのは気にし出すと気になるが、気にしなければ際限なく無頓着になれのだとも聞く。

小奇麗にするのは人間の基本的欲望の一つだが、僕自身はその欲望が若干欠如しているようだ。金持ちにもそんなになりたくないし(ちょっとはなりたいけど)、大きな家に住んだり、閣僚になりたかったり、という欲望も他人より欠けているみたいだ。

そんな僕でも、さすがに裸で歩き回るのは恥ずかしい。しかしもっと恥ずかしい事を平気で出来る人がいるようだ。いくらなんでもこれと思うような振る舞いを平気でできる人には、驚く事がある。

たとえば、ちょっと古くなるが辞任した閣僚S氏とて、前科者であった事をわざわざ想起させるなど、私にはとても恥ずかしくて出来ない。

もっとも彼の場合、本当に欲したのは肩書=(尊敬と名誉)という図式通り、国民に権力者として尊敬されるという図式が実現することを想定していたようだ。本人は「どうして過去の事をいつまでも」と思ってたみたい。

しかし、それは思い違いというものだ。人目を決めるのは他人の目だ。本人がどう思おうと、裸の王様は裸である。肩書は買えるが他人の評価は買えないのである。偉いと思われたきゃそう思われる行いをするしかないのだ。

他人の事はさておき、本当に自分が持ちたいスタイルは何なのか、これは時々考えて直してみるべき問題だ。無欲といったが僕も歳とともに欲が出てきて、けっこう最近は人目を気にする。

とりあえず外出時には(変態だと思われないように)着衣はつける、時間があれば髪もととのえ髭もそる。ジーンズを履くのも、今となっては無思想を体言するだけだし、まぬけな発言で無欲を表す。

人目を気にするのは、相当な負担でもある。落ちてる空缶などは拾うにしても、拾わないにしても相当どきどきする。人目を気にしない僕でさえ、けっきょく手間よりも人目の方がはるかに気になる。けっきょく説明が楽だという理由で拾って捨てることになる(理由を聞く者などいるはずもないが。)

だいたい現代都市は人目が多すぎる。気にすると休まる暇がない。単に平凡に見せようとするだけでも相当な努力を要する。今どきホームページも作らないとなにか主義主張があって流行に載らないのだとも取られかねないから、こうして人並みにホームページだって作らねばならないではないか。

そうなると、人目を全然気にしないですむ人たちがちょっとうらやましい。